「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける」。憐れみは、ほかの人の立場になって同情することであり、相手を大切にすることです。同情することは、ほかの人と同じ思いになって寄り添うことです。
二人の目の見えない人たちがイエスさまの憐れみを強く求めたように(マタイ20:29~34)、憐れみを強く求める者に必ずイエスさまが応えて憐れんで下さいます。イエスさまの憐れみを頂いていると強く信じてほかの人に寄り添うならば、神さまはその人に憐れみを更に増し加えて下さっているのです。
「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける」。憐れみは、ほかの人の立場になって同情することであり、相手を大切にすることです。同情することは、ほかの人と同じ思いになって寄り添うことです。
二人の目の見えない人たちがイエスさまの憐れみを強く求めたように(マタイ20:29~34)、憐れみを強く求める者に必ずイエスさまが応えて憐れんで下さいます。イエスさまの憐れみを頂いていると強く信じてほかの人に寄り添うならば、神さまはその人に憐れみを更に増し加えて下さっているのです。
「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」。義とは、イエスさまご自身であり、義に飢え渇く人たちとは、その義であるイエスさまに従って正しく生きようと強く願い求める人たちです。私たちは自分の力で正しく生きることができません。神さまがイエスさまを通して、その正しさを与えて下さるのです。正しいことをしている時、私たちは自分の力でしているのではなく、イエスさまの働きのおかげだと強く信じて生きているなら、その人の心は、平安で満たされているのです。
「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」。イエスさまが山で人々に教えてくださったことばです。柔和とは、人を押しのけたりしないおだやかで、やさしいことです。その人たちはこの地上で神さまのために働きます。私たちは罪深く、弱くいつでも柔和でいることはできません。けれども、神さまが柔和な心を与えて下さるのです。わたしたちは、その事実(恵み)を信じて、生き続けてまいりましょう。
神さまは人類のはじめの時、3500年前のモーセの時、2700年前のイザヤの時、救いの希望(イエスさま)をたえず示しておられました。その中で2000年前、イエスさまはベツレヘムでお生まれになりました。その救いの希望は、最初に一般市民として扱われない羊飼いたちに目立たないかたちで知らされました。羊飼いたちがその知らせを聞いていると、無数の天使たちが賛美をしました。これは神さまご自身が御子イエスさまを私たちの救い主として送り出したことを心から喜んでおられるのです。救いの希望であるイエスさまが本当に来られたことを私たちも喜び、祝いましょう。
使徒信条を学ぶ最終回です。「罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず」を学びます。使徒信条の最後は、未来の希望。罪をゆるされた私たちは、復活して、ずっと神さまといっしょに、神さまを賛美して、神さまの愛の中で生きます。罪をゆるしていただくということ。私たちは、子どもも、大人も、罪人です。でも、イエスさまが十字架で私たちの罪のさばきを代わりに受けてくださいました。イエスさまの十字架の血が、私たちをきよくしてくださいました。だから、最後の復活のとき、私たちは罪なしとされて、ずっと神さまといっしょです。使徒信条は天国の希望を告白しておわります。