教会のはじまりは、聖霊なる神さまが、弟子たちの一人一人に宿られて、それぞれの外国語で神の偉大な業(神のことば、イエスさまの十字架と復活の福音が中心となった説教)が語られることではじまりました。これがペンテコステです。聖霊なる神さまが共におられ、神のことばが力強く語られることで教会は、目覚ましい進展をし、「支え合う教会」となります。
聖霊なる神さまが私たちと共にいて下さり、教会で聖霊なる神さまが神のことばを力強く語られることで、今でも支え合う教会の力の源となっているのです。
教会のはじまりは、聖霊なる神さまが、弟子たちの一人一人に宿られて、それぞれの外国語で神の偉大な業(神のことば、イエスさまの十字架と復活の福音が中心となった説教)が語られることではじまりました。これがペンテコステです。聖霊なる神さまが共におられ、神のことばが力強く語られることで教会は、目覚ましい進展をし、「支え合う教会」となります。
聖霊なる神さまが私たちと共にいて下さり、教会で聖霊なる神さまが神のことばを力強く語られることで、今でも支え合う教会の力の源となっているのです。
イエスさまの十字架と復活が、確かな事実であり、神さまの恵みにおいて(神さまのおかげで)信じることが一番大切なことだとパウロは言います。このことを信じることで、この世に生を受けた意味があるのです。私たちは、このことを信じることで心が満たされているのです。
イエスさまは復活されましたが、弟子たちはそのことを信じませんでした。ガリラヤで弟子たちが食事をしていると、復活のイエスさまが現れて、復活を信じなかったので戒められます。そして、「全世界に行って福音を(私と一緒に)宣べ伝えなさい」とご命令されました。弟子たちは復活のイエスさまを信じて、イエスの言われた通りに福音を伝えます。弟子たちの力で福音を伝えたのではなく、天に昇られた復活のイエスさまが共に働いて伝えたのです。イエスさまが弟子たちを通して福音を伝えたのです。そうして、この福音は2000年後の私たちにも届いたのです。
イエスさまは、日曜日の早朝に復活されました。イエスさまの復活を最初に知らされたのは婦人たちでした。婦人たちは恐ろしくなり、この真実を受け入れることができませんでした。それぐらいイエスさまの復活は、人の思いをはるかに超えた奇跡であり、真実なのでした。復活されたイエスさまは、弟子たちに、先にガリラヤに行くので、会いに来なさいとも言われました。
イエスさまの方から彼らの罪を赦して、関係を回復して歩み寄って下さったのです。そして、先立って弟子たちを導かれるのでした。今でも復活された主が私たちに出会って、私たちの歩む道を先導して下さっておられるのです。
イエスさまは、十字架にかかり、金曜日の午後3時ごろに息を引き取られました。日曜日の早朝、女性たちがイエスさまの墓に行くと、入口の墓石がどけてありました。女性たちが墓の中に入ると、天使が「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのか、あの方は復活なさってここにはおられない」と言いました。
2000年前におられたイエスさまは十字架にかかり、確かに復活されたのだと、神さまが宣言されたのでした。復活は、神さまが私たちを死・罪・滅びで終わらせないで、私たちを救うために、神さま自らが救いを起こされ、救いの扉を開いて下さったのです。この大いなる恵みを感謝しつつ、イースターをお祝い致しましょう。
イエスさまは、エルサレムで十字架にかかられました。その時、二人の犯罪人も一緒に十字架にかかりました。この二人は死刑になる大きな罪を犯していました。片方の犯罪人は周りと同じようにイエスさまをののしるのですが、もう一人の犯罪人は、ののしる犯罪人をたしなめ、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい」といったのでした。この人は十字架にかかられたイエスさまを見て、救い主(私たちの罪を赦して天国に入れて下さるお方)と信じ、寄りすがるのでした。すると、イエスさまは「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と、この犯罪人を救って下さったのです。イエスさまを信じる人を救うためにイエスさまは十字架にかかられたのです。罪人である私のために主は十字架にかかって下さったのです。
イエスさまは、十字架にかかられるためにエルサレムに先立って進み、入ろうとします。先立って進むイエスさまは、まさに神の子メシア(救い主;私たちの罪を赦して救って下さるお方)としての振る舞いです。エルサレムに入る直前に子ろばを用意させ、その子ろばに乗ってエルサレムに入られます。勇ましい王、メシアとしてではなく、やさしい平和の王としてメシアを示されるのでした。その入城に弟子の群れはイエスさまを見て「平和の王」と叫び、神さまを賛美するのでした。イエスさまがメシアである事実を誰も止めることができない状態、これがイエスさまのエルサレム入場です。
メシアであるイエスさまは、私たちを救うために私たちを見つけ出し、今でも私たちに先立って導いて下さっておられるのです。この恵みを覚えて、十字架の主を仰ぎ見ましょう。