パウロは、テサロニケの教会の人たちに具体的に私のために祈ってくださいと言います。悪い者から逃れられ、福音が速やかに伝えられるようにと。そしてパウロは、彼らのためにも力強く祈ります。
教会は、このようにお互いに自分のことを伝え、祈り合い、支え合うところです。互いに祈り合うことで私たちは、励まされます。どこかで誰かがこの私のために祈ってくださっていると信じることで、今日生きていく力が与えられるのです。この恵みを覚えてこれからも教会に集いましょう。
パウロは、テサロニケの教会の人たちに具体的に私のために祈ってくださいと言います。悪い者から逃れられ、福音が速やかに伝えられるようにと。そしてパウロは、彼らのためにも力強く祈ります。
教会は、このようにお互いに自分のことを伝え、祈り合い、支え合うところです。互いに祈り合うことで私たちは、励まされます。どこかで誰かがこの私のために祈ってくださっていると信じることで、今日生きていく力が与えられるのです。この恵みを覚えてこれからも教会に集いましょう。
イエスさまは、復活されると、その知らせを信じた人たちと信じない人たちがいました。信じない人たちは、イエスさまの復活をもみ消そうとしますが、信じた人たちは、イエスさまに出会い、喜び、伝えました。それはイエスさまの愛の大きさに触れたからでした。イエスさまは、この私のために復活してくださったことが分かったからでした。「信じないのではなく、信じる者になりなさい。見ないのに信じる人は幸いです」(ヨハネ20:27.29)。信じていることで今、幸せであるという恵みを覚えて、主にあって生き続けましょう。
イエスさまは、言われていた通りに、死に勝利され、私たちのためによみがえってくださいました。神が御子イエスをよみがえらせたことで、死に打ち勝ち、死で終わりではない、ということをわたしたちに示してくださったのです。イエスさまの復活を信じる者は、死で終わりでなく、復活されたイエスさまと同じように永遠の生命を得るのです。私たちはこの希望をもって、主の業(主の復活を喜び、伝え、礼拝し続けること)に励み、共に生き続けましょう。
最後の食事のとき、イエスさまは、パンとぶどう酒を使徒たちに渡しました。パンとぶどう酒を飲食するたびに、私たち人間のためにイエスさまが十字架において苦しんでくださったことを覚え続けなさい、といわれました。父なる神が御子イエスの十字架において私たちを救う約束、この新しい約束を覚え続けなさいというのです。この新しい約束があるからこそ、罪深い私たちに救いがあり、希望があります。この新しい約束を結んでくだった神をほめたたえ、感謝を込めて、主の十字架を覚え続けてまいりましょう。
イエスさまは、勇ましい馬ではなく、優しい子ろばに乗ってエルサレムに入られました。子ろばは、平和を意味します。イエスさまは、平和のメシア(救い主)としてエルサレムに入られました。父なる神が十字架の道を救いの道とされたなかで、平和のメシアは、十字架(私たちの罪のさばきの身代わりとなり)にかかり、神と私たちの仲立ちをし、神と私たちの間に真の平和を取り戻してくださいました。今ここにイエスさまのおかげで神との平和が保たれているのです。イエスさまの十字架のおかげで、この一方的な憐れみに感謝しつつ、私たちに真の平和を与えて下さるイエスさまを信じ、礼拝においてほめたたえ続けましょう。
イエスさまは、サマリアの地におられました。この時、イエスさまは私たちの罪の裁きの代わりとなって十字架の道を歩まれる決意を固められました。父なる神は、十字架の道を私たちの救いとされ、イエスさまは、私たちを救うために自ら決意を固められ、私たちのために苦しんでくださるのです。ここにイエスさまの愛があり、今でもその愛は私たちに注がれています。
罪深く救われるはずのない私たちのために決意を自ら固めて下さったイエスさまの愛を覚えて、感謝しつつ、イエスさまの十字架を仰ぎ見て従い続けましょう。